本当の「2008年8月20日」
お久しぶりです。今日からまたブログを再開しようと思っています。その前にどうしてブログを休んでいたかを話します。かなり重い話になるので、今元気が無かったり、体調が悪い人は読まない方がいいです。どんなにハイな奴もどん底に突き落とす自信があります。
8月20日 仙台旅行を来週に控え、俺は急ピッチでひぐらしをやっていた。その日も朝5時までプレイし、やっと寝るところだった。その時、携帯が鳴った。
着メロも指定してあるし、時間も時間なので、かけたのは誰かすぐ分かる。母だ。母は俺を呼び出す時は携帯を鳴らす。俺はとりあえず寝室に向かう。母は布団で横になっていた。
母「具合が悪い。」 俺「じゃあ、救急車呼ぶ?」 母「もしかしたらちょっと寝たら治るかもしれないから、とりあえず様子をみる。それでも治らなかったら救急車を呼ぶ。」 俺「分かった。」
特に気にすることもなく、俺は寝た。この時は母がただ疲れてるだけだと思っていた。
やっと寝られたと思ってすぐ、また携帯が鳴った。時刻は6時半。寝てすぐ起こされた俺は不機嫌な気分で、母のところに向かう。
母「やっぱり具合悪い。」 俺「じゃあ、救急車ね。」
ちゃんと会話もできてるし、この時点でも楽観的だった。特に焦ったりすることもなく、生まれて初めての救急車を呼び、最低限の仕度をして救急車を待ち、乗り込んだ。
20分くらいかけて病院へ。俺は救急外来課の待合室で待たされる。いつ母の治療が終わって、帰ってくるかが分からないので、寝てない俺はとりあえず目を閉じて待つ。でも、基本布団でしか寝られないので、例え徹夜状態の今でも、ここでは寝ることはできない。
1時間くらいして、車椅子状態の母が出てきた。車椅子からベッドに移す時に意識を無くす母を見て、俺は終わったと思った。どうやら、ただの疲労ではないのは確かだ。
母は緊急手術が必要らしい。手術の同意書、緊急の連絡先等の書類を書き、一応話せる状態に戻った母とこれからどうするかを少し話す。その結果、父以外にはおばあちゃんにも、弟にも話さないということになった。
急いで父を呼ぶが、単身赴任中なので来るのは夕方。それまでは俺しかいない。母はすぐ緊急手術のための精密検査に回された。母がいなくなってから、ちょっと気になっていたことを医者に尋ねる。手術の同意書の書類に書いてあった、手術の成功率のところの「緊急を要するため、成功率は予測できません」と、合併症の発症の確率10%というところだ。10%というのがこんなに恐いと思わなかった。10人に1人か。高すぎる。分かってる、聞かなくても医者はちゃんと治療してくれる。それでも聞かずにはいられなかった。
医者の「大丈夫です。心配しないで下さい。」が欲しかった。
でも医者はやっぱりプロだった。安易にそんな言葉は口にしない。100%努力はするが、絶対に大丈夫とは言えない感じだ。そりゃあそうだろう、絶対に大丈夫なんて言えるはずがない。そんなことは俺だって分かってるさ!でも言って欲しいんだよ。分かるだろ?
俺は全くやることがない。これからのために寝ようにも待合室のソファでなんか寝られない。看護婦さんに相談すると、空いていたベッドを貸してもらえることになった。寝ようとすると病棟内に水のBGMが流れてることに気付く。(さすが病院、BGMも穏やかだな。)と思っていると、それが降り始めた雨の音だったことを理解する。一瞬で雨は強くなり、乱暴なBGMになった。不吉な予感がする。
時刻は13時。ものすごく眠かったが、次に起きた瞬間に母が死んでいるかもしれないと思うと、なかなか眠れない。手術中に何か起こって、俺のことを看護婦さんが起こしに来ないでくれ、と願いながらなんとか眠りについた。
目を開けた。どうやら誰かが起こしに来てはいないようだ。時刻は15時、順調に進んでいれば手術は終わっていると言われた時間だ。2時間しか眠れてないが、また寝ようとは思わない。ベッドで座って待っていると、ちょっとして、慌てた様子も無い看護婦さんが呼びに来た。どうやら手術は成功したらしい。ほっと胸を撫で下ろし、母の待つというベッドへ向かう。
その母を見て俺は愕然とする。それは、体からは心電図のためのコード、点滴用の管など、体から無数の線が伸びている母の姿だった。ドラマの場面などで見たことはあるが、実際に心電図を見続けるのは本当に怖いし、辛いことが分かった。見方も分からない俺はどれくらいの数値がいいのかも分からない。ちょっと数値が上がったり、下がったりするだけで怖くなる。リズムよく刻む電子音が実に不快だ。
加えて、よく流れていたBGMが、ナースコールだったことに気付く。そういえばひっきりなしに流れていた。この場所は手術直前や手術直後の人が集まるところ、言い方は悪いが死ぬ可能性が他の患者よりも高いところだ。そりゃあナースコールを押せるのなら押すだろう、みんな痛くて苦しくてたまらないのだから。それに気付くと、今まで何とも思っていなかったこの音楽も、不快でたまらなくなる。
母は喋れる状態ではなかった。手術は成功したが、まだ安心できる状況ではないのだろう。俺はそんな母を見ていられない。早く帰りたい。家に帰りたい。できることならひぐらしをしたい。また昨日と同じ生活に戻りたい。そんな夢みたいなことばかりを考えていた。
19時過ぎに父がやっと来た。移動距離を考えても遅いと思ったが、どうやら病院を間違えてしまったらしい。父もかなり動揺しているようだ。無理もないだろう。
俺からの状況説明もそこそこに、父が到着したということで、医者に説明のために呼ばれた。
医者に連れられ、説明室というところへ。今日した緊急手術の話やレントゲン写真を見せながら今後の治療も含め、話を聞く。
どうやら母の具合が悪いのは、体の中で腫瘍が破裂したためらしい。その事実も受け入れらない状態の中、今まで俺が生きてきた中でおそらく一番衝撃的なことを医者は言った。
「おそらく癌です。」
?え?誰が?誰が?誰が癌なの?誰?誰なんだよと思っている俺もいたが、第三者的に親の癌告知をされた時はこんな感じなのか、と考えられる俺もいた。今考えても、本当に不思議な感覚だった。こういうのを本当にパニックというのかもしれない。
そして瞬時に、俺の中で「癌=死=母」の式が成り立つ。母は死ぬのか・・・?
医者は続けて、安心させるように「でも大丈夫です。一生懸命治療します。だから家族の方も一生懸命頑張りましょう。」と言った。
でもそんな言葉には納得できない。定型文だろ、それ?どうせすぐ死ぬんだろ?もう手遅れなんだろ?
医者はそんな俺の雰囲気も感じ取ったのかもしれない。ここは俺の被害妄想かもしれないが、今が危なくないっていう状態ではないことをわざわざ言うために、それまでが本当に危なかったことを説明し始めたように思えた
「朝、救急車に乗ってなければ、本当に危険な状態になっていたかもしれません。」
さらりと恐いことを言う。俺が携帯に気付かず、グースカ寝てたら、俺が昼過ぎに起きた時、母が死んでるっていうことか、それは?確かにそれよりはマシだ。想像してみただけで、ぞっとする。そんなことになっていたとしたら、俺はもう生きていけないだろう。
母の病気はとても稀な事象らしい。でもそう言われれば言われる分だけ、母は稀な例で癌になり、稀ではなく癌で死ぬのか、と思った。
医者からの説明が終わった後、俺は泣いた。父は泣かなかった、いや泣けなかったのだろう。俺を励ますためには、泣いてはいけなかったからだと思う。おそらく父の中でも最悪のシナリオはできていたはず。こんな状態の中、父は俺が朝、母を病院へ連れて行ったことを褒めた。
もう面会時間もとっくに終了しているので、母に軽く声をかけてから、その日は帰路についた。
帰りのタクシー、電車内では一言も交わさなかった。俺はずっと涙をこらえるので必死だった。
最寄り駅に着いた。父はコンビニにでも行って、晩飯を買おうと言った。俺は普段でさえ一食しか食べてないし、ましてやこの状態なので食べたくないのでいらないと言ったが、「これからのために食べなきゃ駄目だ。今、お前が倒れたらどうするんだ。」と言われたので、仕方なくパンを一個買った。
21時くらいに帰宅。やっぱり何も食べたくない。父は「大丈夫だから。皆で戦おう。」と何回も言っていた。そして明日からどうするかを話した。
とりあえず病院へは毎日、父が行くことになり、俺は家にいて家事をすることになった。父の仕事は大丈夫なのか?とも思ったが、状況が状況だし、そこは聞かなかった。仮に聞いたとして、「すぐ帰らないといけないから、お前がちゃんと病院に行けよ。」と言われるのも嫌だった。もうあんな状態の母は見たくない。
その日は前述の通り徹夜してたこともあり、22時に俺は寝た。(むちゃぶり!を録ってないや。)と少しでも考えた俺に腹が立った。その冷静だか、冷徹だか分からない俺は誰なんだ?
寝るときに考えるはただ一つ。
「これが夢でありますように。」
本当に長く、密度の濃い一日が終わった。
8月21日~ 8時に目が覚めた。父はもう病院に行く準備をしていた。やっぱり夢ではなかった。
父が出かけた後、俺は昨日買っていたパンを食べながら今後どうするべきかを考えた。
ここまで来たら母のことを楽観視することはできない。最悪のことを考えて行動すべきだろう。母はもしかしたら、明日、いや今日死ぬかもしれないのだから。
そして、俺の一人で生きていくための練習と、母の死を受け入れるための準備が始まった。
まず、母に前々から言われていたことからやり始めた。自転車の修理と、スーツのクリーニングだ。そのついでに駅に行って仙台行きの新幹線のチケットをキャンセルした。行けるはずがない。
家に帰ってからは、洗濯・掃除をする。元々綺麗にするのは好きだし、ましてや時間があるので特に苦ではない。でも、どんなに綺麗にしても母はもうこの家に帰ってくることはないかもしれないし、褒めてもくれないと考えるとすぐに泣きたくなってしまう。
家事終了後、俺は笑いに逃げた。内PやガキのDVDを見て、とりあえず嫌なことを考えないようにした。
あっという間に一日が終わり、父が帰ってきた。特に問題はなかったらしい。ただそれは医者側の観点であって、母は痛みとひたすら戦っていた。そんな現実が、一日経った今でも俺はやっぱり受けいれられなかった。
それからの日々は必死だった。その途中でとんでもない感情が俺に芽生えてきた。それは「どうせ死ぬのなら、早く死んでくれ」というものだ。もし、母の入院が長引くことがあったら俺の最後の学生生活は吹っ飛ぶ。卒業旅行も行けないかもしれない。行けたとしても心のどこかで不安がついて回る。そのことだけを考えたら、今死ねば、卒業旅行には行ける。そうしたら、もうこれからを楽しむしかないのだから。でも、そう考えることは、俺にとってものすごく恐い想像だった。
俺は一体どうすればよかったのか。母に優しくするだけでは駄目だった。俺は母に「もう若くないんだし、ちゃんと検査してもらえば。」と言えば良かったのかもしれない。仮に治ったとしても、母はこれからちゃんとした検査を定期的に受け続けることになるだろう。でもそれはこんなことが起こったからであって、起こってなかったとしたら受けてないはずだろう。やはり事が重大にならないと人は動かないものなのか。
そして母の入院中、一番しんどかったのが布団に入り、眠りにつくまでの時間だった。母のことを考えると寝られないし、じゃあ母のことを考えないようにすると、こんな状態で母のことを考えないのは親不孝者だというレッテルを貼られる気がする。この日本で23歳以下で親を亡くしている人はどのくらいいるんだろう。やっぱり不幸な部類に属するのだろうか。
母の腫瘍を取り除く手術は9月初旬に決まった。今のところは順調に来ているが、とりあえずこの手術が無事に終わるまでは安心できない。いや、無事に終わったとしても安心はできないだろう。成功しても-100が-50になるだけだ。当分マイナスなままなのは間違いない。
精神的な面では全く強くならないまま、時間が経っていった。ただ、運が良いことにそのまま順調にいき、手術も無事に成功した。手術時間中、俺は家で寝ていた。理由はその時間に起きているのが怖かったから。だから自発的に目を覚ましたことにほっとした。電話で起こされて無い時点で大丈夫だって分かったからだ。
手術後の経過も良かったので、日程が延びることもなく今日、母は退院した。でも100%元気になっての退院ではない。自宅療養という言い方のほうが正しいのかもしれない。現時点で病院ができることは無くなったため、家に戻るという感じだ。だって、今も母は歩くことでさえままにならない状態なのだから。まだまだ普通の生活に戻るには時間がかかりそうだ。でも、一つの大きな山は越えたと思う。俺も少しだけ一人で生きていける自信がついた。
俺がこの長い文章を読んでくれた人に伝えたいのは「本当の意味でお母さんを大事にして欲しい」ということ。お父さんがサラリーマンなら、会社の健康診断でちゃんと検査をしているはず。でもお母さんが専業主婦ならちゃんとした検査はしてないかもしれない。そうだとすると、気持ちの面だけではカバーできない。俺は別にお母さんのことを大切にしてなかったわけではない。でも、こんなことが起こってしまった。「母の病気に、前兆とかはあったんでしょうか?」と医者に尋ねても、「おそらく検査でしか見つけられなかったでしょう。」と言っていた。それくらいの確率なんだろう。運が悪いのは間違いない。でも、少なからずそういう人はいる。同じような状況で両親を無くしてしまった人もいるはずだろう。俺はたまたまそっちのパターンにならなかっただけなのだ。現にお母さん自身、高校生の時に父親を亡くしている。だとしたら、この病気も遺伝なのか?高校生の時に親を亡くし、息子が大学生の時に自分は死ぬ。もしそうなってたとしたら、母はどんな気持ちになるだろうか。
あなたのお母さんは、今、元気ですか?「元気です」、と断言はできないはずです。元気そうに見えるが正解です。だってそんなことは素人では分からないのだから。でも元気にみえるうちに、ちゃんとした検査が必要だと思います。俺のお母さんみたいに病気になってからでは遅いのです。想像してみてください。病院の説明室で医者から「お母さんは、おそらく癌です。」と言われた時の自分を。俺は言われました。2008年8月20日に言われました。一生忘れないでしょう。言いづらいと思っても、何気なくあなたのお母さんにこの話をしてみて下さい。少し身近な人の話なので、あなたのお母さんの意識がちょっとだけでも変わるかもしれません。みんなにはこの気持ちは味わってほしくありません。
俺は全く気付けなかったし、今まで検査を薦めたことも一回も無かった。倒れる前日の夜も、お母さんが買ってきたハーゲンダッツを俺がストロベリーと黒みつのうちどっちを食べるかを話すくらい平和だった。まさか次の日の朝にこうなるとは全く予想できなかった。
それでも、あなたは自分で気付けると言えますか?
退院した今でも、「なんで俺のお母さんがこんなことに」と思っています。これを読んでいる俺の友達のあなたも、身近な人にこんな災難があったことで、驚いている人もいるかもしれません。でも、これは紛れもない事実です。俺にこれからできることは見守ることと、病気になっても納得できるような年令まで、何もないように祈ることしかできないのです。これを書いている今も、母が具合悪くないかずっと心配です。俺はこの不安を母が死ぬまで背負い続けるのです。
それではこれからもこのブログをよろしくお願いします。
そんなんでまとめられるかーい!![]()
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