カテゴリー「myself」の14件の記事

2008年9月12日 (金)

本当の「2008年8月20日」

お久しぶりです。今日からまたブログを再開しようと思っています。その前にどうしてブログを休んでいたかを話します。かなり重い話になるので、今元気が無かったり、体調が悪い人は読まない方がいいです。どんなにハイな奴もどん底に突き落とす自信があります。

8月20日                                                           仙台旅行を来週に控え、俺は急ピッチでひぐらしをやっていた。その日も朝5時までプレイし、やっと寝るところだった。その時、携帯が鳴った。

着メロも指定してあるし、時間も時間なので、かけたのは誰かすぐ分かる。母だ。母は俺を呼び出す時は携帯を鳴らす。俺はとりあえず寝室に向かう。母は布団で横になっていた。

母「具合が悪い。」                                                     俺「じゃあ、救急車呼ぶ?」                                                   母「もしかしたらちょっと寝たら治るかもしれないから、とりあえず様子をみる。それでも治らなかったら救急車を呼ぶ。」                                                       俺「分かった。」

特に気にすることもなく、俺は寝た。この時は母がただ疲れてるだけだと思っていた。

やっと寝られたと思ってすぐ、また携帯が鳴った。時刻は6時半。寝てすぐ起こされた俺は不機嫌な気分で、母のところに向かう。

母「やっぱり具合悪い。」                                                 俺「じゃあ、救急車ね。」

ちゃんと会話もできてるし、この時点でも楽観的だった。特に焦ったりすることもなく、生まれて初めての救急車を呼び、最低限の仕度をして救急車を待ち、乗り込んだ。

20分くらいかけて病院へ。俺は救急外来課の待合室で待たされる。いつ母の治療が終わって、帰ってくるかが分からないので、寝てない俺はとりあえず目を閉じて待つ。でも、基本布団でしか寝られないので、例え徹夜状態の今でも、ここでは寝ることはできない。

1時間くらいして、車椅子状態の母が出てきた。車椅子からベッドに移す時に意識を無くす母を見て、俺は終わったと思った。どうやら、ただの疲労ではないのは確かだ。

母は緊急手術が必要らしい。手術の同意書、緊急の連絡先等の書類を書き、一応話せる状態に戻った母とこれからどうするかを少し話す。その結果、父以外にはおばあちゃんにも、弟にも話さないということになった。

急いで父を呼ぶが、単身赴任中なので来るのは夕方。それまでは俺しかいない。母はすぐ緊急手術のための精密検査に回された。母がいなくなってから、ちょっと気になっていたことを医者に尋ねる。手術の同意書の書類に書いてあった、手術の成功率のところの「緊急を要するため、成功率は予測できません」と、合併症の発症の確率10%というところだ。10%というのがこんなに恐いと思わなかった。10人に1人か。高すぎる。分かってる、聞かなくても医者はちゃんと治療してくれる。それでも聞かずにはいられなかった。

医者の「大丈夫です。心配しないで下さい。」が欲しかった。

でも医者はやっぱりプロだった。安易にそんな言葉は口にしない。100%努力はするが、絶対に大丈夫とは言えない感じだ。そりゃあそうだろう、絶対に大丈夫なんて言えるはずがない。そんなことは俺だって分かってるさ!でも言って欲しいんだよ。分かるだろ?

俺は全くやることがない。これからのために寝ようにも待合室のソファでなんか寝られない。看護婦さんに相談すると、空いていたベッドを貸してもらえることになった。寝ようとすると病棟内に水のBGMが流れてることに気付く。(さすが病院、BGMも穏やかだな。)と思っていると、それが降り始めた雨の音だったことを理解する。一瞬で雨は強くなり、乱暴なBGMになった。不吉な予感がする。

時刻は13時。ものすごく眠かったが、次に起きた瞬間に母が死んでいるかもしれないと思うと、なかなか眠れない。手術中に何か起こって、俺のことを看護婦さんが起こしに来ないでくれ、と願いながらなんとか眠りについた。

目を開けた。どうやら誰かが起こしに来てはいないようだ。時刻は15時、順調に進んでいれば手術は終わっていると言われた時間だ。2時間しか眠れてないが、また寝ようとは思わない。ベッドで座って待っていると、ちょっとして、慌てた様子も無い看護婦さんが呼びに来た。どうやら手術は成功したらしい。ほっと胸を撫で下ろし、母の待つというベッドへ向かう。

その母を見て俺は愕然とする。それは、体からは心電図のためのコード、点滴用の管など、体から無数の線が伸びている母の姿だった。ドラマの場面などで見たことはあるが、実際に心電図を見続けるのは本当に怖いし、辛いことが分かった。見方も分からない俺はどれくらいの数値がいいのかも分からない。ちょっと数値が上がったり、下がったりするだけで怖くなる。リズムよく刻む電子音が実に不快だ。

加えて、よく流れていたBGMが、ナースコールだったことに気付く。そういえばひっきりなしに流れていた。この場所は手術直前や手術直後の人が集まるところ、言い方は悪いが死ぬ可能性が他の患者よりも高いところだ。そりゃあナースコールを押せるのなら押すだろう、みんな痛くて苦しくてたまらないのだから。それに気付くと、今まで何とも思っていなかったこの音楽も、不快でたまらなくなる。

母は喋れる状態ではなかった。手術は成功したが、まだ安心できる状況ではないのだろう。俺はそんな母を見ていられない。早く帰りたい。家に帰りたい。できることならひぐらしをしたい。また昨日と同じ生活に戻りたい。そんな夢みたいなことばかりを考えていた。

19時過ぎに父がやっと来た。移動距離を考えても遅いと思ったが、どうやら病院を間違えてしまったらしい。父もかなり動揺しているようだ。無理もないだろう。

俺からの状況説明もそこそこに、父が到着したということで、医者に説明のために呼ばれた。

医者に連れられ、説明室というところへ。今日した緊急手術の話やレントゲン写真を見せながら今後の治療も含め、話を聞く。

どうやら母の具合が悪いのは、体の中で腫瘍が破裂したためらしい。その事実も受け入れらない状態の中、今まで俺が生きてきた中でおそらく一番衝撃的なことを医者は言った。

「おそらく癌です。」

?え?誰が?誰が?誰が癌なの?誰?誰なんだよと思っている俺もいたが、第三者的に親の癌告知をされた時はこんな感じなのか、と考えられる俺もいた。今考えても、本当に不思議な感覚だった。こういうのを本当にパニックというのかもしれない。

そして瞬時に、俺の中で「癌=死=母」の式が成り立つ。母は死ぬのか・・・?

医者は続けて、安心させるように「でも大丈夫です。一生懸命治療します。だから家族の方も一生懸命頑張りましょう。」と言った。

でもそんな言葉には納得できない。定型文だろ、それ?どうせすぐ死ぬんだろ?もう手遅れなんだろ?

医者はそんな俺の雰囲気も感じ取ったのかもしれない。ここは俺の被害妄想かもしれないが、今が危なくないっていう状態ではないことをわざわざ言うために、それまでが本当に危なかったことを説明し始めたように思えた

「朝、救急車に乗ってなければ、本当に危険な状態になっていたかもしれません。」

さらりと恐いことを言う。俺が携帯に気付かず、グースカ寝てたら、俺が昼過ぎに起きた時、母が死んでるっていうことか、それは?確かにそれよりはマシだ。想像してみただけで、ぞっとする。そんなことになっていたとしたら、俺はもう生きていけないだろう。

母の病気はとても稀な事象らしい。でもそう言われれば言われる分だけ、母は稀な例で癌になり、稀ではなく癌で死ぬのか、と思った。

医者からの説明が終わった後、俺は泣いた。父は泣かなかった、いや泣けなかったのだろう。俺を励ますためには、泣いてはいけなかったからだと思う。おそらく父の中でも最悪のシナリオはできていたはず。こんな状態の中、父は俺が朝、母を病院へ連れて行ったことを褒めた。

もう面会時間もとっくに終了しているので、母に軽く声をかけてから、その日は帰路についた。

帰りのタクシー、電車内では一言も交わさなかった。俺はずっと涙をこらえるので必死だった。

最寄り駅に着いた。父はコンビニにでも行って、晩飯を買おうと言った。俺は普段でさえ一食しか食べてないし、ましてやこの状態なので食べたくないのでいらないと言ったが、「これからのために食べなきゃ駄目だ。今、お前が倒れたらどうするんだ。」と言われたので、仕方なくパンを一個買った。

21時くらいに帰宅。やっぱり何も食べたくない。父は「大丈夫だから。皆で戦おう。」と何回も言っていた。そして明日からどうするかを話した。

とりあえず病院へは毎日、父が行くことになり、俺は家にいて家事をすることになった。父の仕事は大丈夫なのか?とも思ったが、状況が状況だし、そこは聞かなかった。仮に聞いたとして、「すぐ帰らないといけないから、お前がちゃんと病院に行けよ。」と言われるのも嫌だった。もうあんな状態の母は見たくない。

その日は前述の通り徹夜してたこともあり、22時に俺は寝た。(むちゃぶり!を録ってないや。)と少しでも考えた俺に腹が立った。その冷静だか、冷徹だか分からない俺は誰なんだ?

寝るときに考えるはただ一つ。

「これが夢でありますように。」

本当に長く、密度の濃い一日が終わった。

8月21日~                                                              8時に目が覚めた。父はもう病院に行く準備をしていた。やっぱり夢ではなかった。

父が出かけた後、俺は昨日買っていたパンを食べながら今後どうするべきかを考えた。

ここまで来たら母のことを楽観視することはできない。最悪のことを考えて行動すべきだろう。母はもしかしたら、明日、いや今日死ぬかもしれないのだから。

そして、俺の一人で生きていくための練習と、母の死を受け入れるための準備が始まった。

まず、母に前々から言われていたことからやり始めた。自転車の修理と、スーツのクリーニングだ。そのついでに駅に行って仙台行きの新幹線のチケットをキャンセルした。行けるはずがない。

家に帰ってからは、洗濯・掃除をする。元々綺麗にするのは好きだし、ましてや時間があるので特に苦ではない。でも、どんなに綺麗にしても母はもうこの家に帰ってくることはないかもしれないし、褒めてもくれないと考えるとすぐに泣きたくなってしまう。

家事終了後、俺は笑いに逃げた。内PやガキのDVDを見て、とりあえず嫌なことを考えないようにした。

あっという間に一日が終わり、父が帰ってきた。特に問題はなかったらしい。ただそれは医者側の観点であって、母は痛みとひたすら戦っていた。そんな現実が、一日経った今でも俺はやっぱり受けいれられなかった。

それからの日々は必死だった。その途中でとんでもない感情が俺に芽生えてきた。それは「どうせ死ぬのなら、早く死んでくれ」というものだ。もし、母の入院が長引くことがあったら俺の最後の学生生活は吹っ飛ぶ。卒業旅行も行けないかもしれない。行けたとしても心のどこかで不安がついて回る。そのことだけを考えたら、今死ねば、卒業旅行には行ける。そうしたら、もうこれからを楽しむしかないのだから。でも、そう考えることは、俺にとってものすごく恐い想像だった。

俺は一体どうすればよかったのか。母に優しくするだけでは駄目だった。俺は母に「もう若くないんだし、ちゃんと検査してもらえば。」と言えば良かったのかもしれない。仮に治ったとしても、母はこれからちゃんとした検査を定期的に受け続けることになるだろう。でもそれはこんなことが起こったからであって、起こってなかったとしたら受けてないはずだろう。やはり事が重大にならないと人は動かないものなのか。

そして母の入院中、一番しんどかったのが布団に入り、眠りにつくまでの時間だった。母のことを考えると寝られないし、じゃあ母のことを考えないようにすると、こんな状態で母のことを考えないのは親不孝者だというレッテルを貼られる気がする。この日本で23歳以下で親を亡くしている人はどのくらいいるんだろう。やっぱり不幸な部類に属するのだろうか。

母の腫瘍を取り除く手術は9月初旬に決まった。今のところは順調に来ているが、とりあえずこの手術が無事に終わるまでは安心できない。いや、無事に終わったとしても安心はできないだろう。成功しても-100が-50になるだけだ。当分マイナスなままなのは間違いない。

精神的な面では全く強くならないまま、時間が経っていった。ただ、運が良いことにそのまま順調にいき、手術も無事に成功した。手術時間中、俺は家で寝ていた。理由はその時間に起きているのが怖かったから。だから自発的に目を覚ましたことにほっとした。電話で起こされて無い時点で大丈夫だって分かったからだ。

手術後の経過も良かったので、日程が延びることもなく今日、母は退院した。でも100%元気になっての退院ではない。自宅療養という言い方のほうが正しいのかもしれない。現時点で病院ができることは無くなったため、家に戻るという感じだ。だって、今も母は歩くことでさえままにならない状態なのだから。まだまだ普通の生活に戻るには時間がかかりそうだ。でも、一つの大きな山は越えたと思う。俺も少しだけ一人で生きていける自信がついた。

俺がこの長い文章を読んでくれた人に伝えたいのは「本当の意味でお母さんを大事にして欲しい」ということ。お父さんがサラリーマンなら、会社の健康診断でちゃんと検査をしているはず。でもお母さんが専業主婦ならちゃんとした検査はしてないかもしれない。そうだとすると、気持ちの面だけではカバーできない。俺は別にお母さんのことを大切にしてなかったわけではない。でも、こんなことが起こってしまった。「母の病気に、前兆とかはあったんでしょうか?」と医者に尋ねても、「おそらく検査でしか見つけられなかったでしょう。」と言っていた。それくらいの確率なんだろう。運が悪いのは間違いない。でも、少なからずそういう人はいる。同じような状況で両親を無くしてしまった人もいるはずだろう。俺はたまたまそっちのパターンにならなかっただけなのだ。現にお母さん自身、高校生の時に父親を亡くしている。だとしたら、この病気も遺伝なのか?高校生の時に親を亡くし、息子が大学生の時に自分は死ぬ。もしそうなってたとしたら、母はどんな気持ちになるだろうか。

あなたのお母さんは、今、元気ですか?「元気です」、と断言はできないはずです。元気そうに見えるが正解です。だってそんなことは素人では分からないのだから。でも元気にみえるうちに、ちゃんとした検査が必要だと思います。俺のお母さんみたいに病気になってからでは遅いのです。想像してみてください。病院の説明室で医者から「お母さんは、おそらく癌です。」と言われた時の自分を。俺は言われました。2008年8月20日に言われました。一生忘れないでしょう。言いづらいと思っても、何気なくあなたのお母さんにこの話をしてみて下さい。少し身近な人の話なので、あなたのお母さんの意識がちょっとだけでも変わるかもしれません。みんなにはこの気持ちは味わってほしくありません。

俺は全く気付けなかったし、今まで検査を薦めたことも一回も無かった。倒れる前日の夜も、お母さんが買ってきたハーゲンダッツを俺がストロベリーと黒みつのうちどっちを食べるかを話すくらい平和だった。まさか次の日の朝にこうなるとは全く予想できなかった。

それでも、あなたは自分で気付けると言えますか?

退院した今でも、「なんで俺のお母さんがこんなことに」と思っています。これを読んでいる俺の友達のあなたも、身近な人にこんな災難があったことで、驚いている人もいるかもしれません。でも、これは紛れもない事実です。俺にこれからできることは見守ることと、病気になっても納得できるような年令まで、何もないように祈ることしかできないのです。これを書いている今も、母が具合悪くないかずっと心配です。俺はこの不安を母が死ぬまで背負い続けるのです。

それではこれからもこのブログをよろしくお願いします。

そんなんでまとめられるかーい!bar

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2008年8月20日 (水)

今日を持ってブログを終了します。でも、心配はしないで大丈夫です。

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2008年5月21日 (水)

そこそこ元気

デジカメを買うと決めて2週間、買う機種はFX-35に決まり、機能、値段もあらかたチェックし終わった。

でも、いつもどおり踏ん切りがつかない。

お金が無いわけじゃない。デジカメはこれからの旅行に絶対使うだろう。

う~ん、何だろうな。やっぱり3万円という大金を使うことに抵抗あるのかな。ましてや、買い替えじゃないから、あまり必要性を感じないというのもある。常日頃使うものでもないしね。

これがテレビやゲームだったらすぐ買うんだろうなぁ。まぁ、俺のことだから壊れてから慌てて買うんだろうけど。

パソコンもこのボロノートが壊れるまで買わないんじゃないか、と思い始めてる。外付けだけでも買うか、と思い始めて2年の月日が経った今日この頃。

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2008年5月 9日 (金)

航海の先に・・・ プロローグ編

就職をまじめに考えたのは高校二年生の面談の時だった。それまでの、「戦隊ヒーロー→サッカー選手→数学の教師」は松坂でいう夢であり、まぁ、現実的に考えて無理なのもあるが、この職業に就くための努力は全くしてこなかった。

理系の科目が得意だったら、そのまま数学の教師を考えたかもしれないが、残念ながら数学、物理、化学は全て苦手で、得意科目は社会だったので、周りからもなぜ理系にいるのか不思議に思われるくらいだった。それらの教科は赤点もほどほどにあったし、模試で物理が4点だったこともあった。

改めて自分が何を好きか、やりたいかを考えた時、すぐに思い浮かんだのが「ゲーム業界」で、その中でも「ファミ通で記事を書きたい」というのが自分の中で一番大きかった。

小さい頃から、ゲームが大好きで、世間一般から見れば、少なからずゲームにかけてきた時間は多いと思う。その時から一つのメーカー、それこそ任天堂やソニーに入るよりも、ゲーム業界全体に携わりたいと考えていたため、ファミ通(=エンターブレイン)に入りたかった。

とりあえず、高三は国立理系クラスに進み、文転の準備をした。正直、高二の時点から浪人するだろうとは感じていた。でも、高三の時点で文転をしなかったのは、理系の友達と離れるのが嫌だったから。今でも、その判断は間違っていなかったと確信している。それぐらい学校自体は楽しかったが、文転したら使わない教科はまるっきり勉強しなかったので、卒業が危ぶまれる時期もあった。

友達が一流大学にどんどん決まる中、しっかり俺の現役の受験は全滅した。予備校に入り、満を持して文転をし、一浪して世間から見ればまぁまぁの大学に入学した。今になって思えば、ここにもよく入れたと思う。予備校の授業にはほとんど出ず、出席届けのためだけにお昼頃に起きて予備校に行って、家に帰ってきてゲームという日々がほとんどで、休みの日には自習室に行ってくると親には言いつつ、アニメのイベントに行ったりすることもしょっちゅうあった。

入学後、社会の教師という選択肢も考えていたため、教職課程のガイダンスにも行ったが、カリキュラムが単純計算で2倍になると言われて、すぐに諦めた。

大学に入学してからは、勉強、バイト、サークルはほどほどに、企業研究という名のゲーム、あとはテレビ、パソコンに明け暮れる日が続いた。

のんびりと大学生活を送っている中、現役でいった高校の友達(文系)の就職活動がいつのまにか始まった。俺は、みんな一流大学だし、まぁすぐいいところに決まるだろうと思っていた。逆にすぐ決まってくれなきゃ、俺らみたいな下の大学はどうするんだとも思っていた。結果的に、みんな一流企業に決まったが、決して楽そうには見えなく、おそらく精神的にも結構辛かったと思う。隠れたところでは相当しんどかっただろうと、自分も経験して感じた。

記録に残る就活としての最初は、夏に行ったバンダイのショートインターンだった。この経験は、俺の意識をさらに高めてくれるものだった。元々、就活に対して、いや全ての事象に対してプラス思考ではない俺は、超売り手市場だとか言われても全く楽観視してなかった。この時から、どこにも決まらなかったらどうしようとさえ考えていた。ただ、自分の中で他の人よりもほんの少し早く始めることはできたかな、という自信はついた。

エンターブレイン、バンダイ、任天堂を第一志望に据え、俺の無謀すぎる就職活動がついに始まった。

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2007年10月24日 (水)

A FRIEND OF MINE~中学生編 2

入学式も無事に終わり、各々自分の教室へ向かった。

そして、すぐに自己紹介+係り決め。どうして学級委員をこの段階で選ぶのかは未だに理解できない。学級委員はもう小学生の時に十分やったのでやる気はなく、適当にやり過ごして、結局違う小学校の奴らに決まった(男の方は俺と同じ幼稚園に通っていて、結構仲が良く、小学校は別々のとこに通っていて、中学校でまた再会した、ということを少し経ってから分かった。普通にびっくりした。)。

そして、俺の「学校で嫌いなことランキング」で堂々2位に入る(1位はプール)そうじ当番を決めることに。担当は班で分担し、その班は普通に出席番号で決まることに。はい、俺は7人の班で6人が違う小学校ですね。校歌で仲良くなった友達はちょうどぎりぎりで違う班。

そんなことがありえるのか?中学生だったけど、おいおい、その確率はどれくらいやねん!と関西風に思ったもんですたい。本当に気まずいこと、この上ないぞ。

でも、このピンチも俺は乗り切った。乗り切ったというか、乗り切らせてもらった。同じ班の女の子の天然のおかげで・・・。

そして、この後の席替えで、また新たな仲良し四人組を結成することになろうとは、俺は夢にも思わなかった・・・。

P.S.                                                              書いてみて思ったんだけど、これめちゃくちゃ長くなるわ。これでも、だいぶはしょってるし。

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2007年10月22日 (月)

A FRIEND OF MINE~中学生編 1

入学式の前に、そのリハーサル+校歌の練習があった。俺は右端で、左隣にしかクラスメイトはいない。そして、そいつのことを俺は知らない。

俺の通っていた中学校は、俺の卒業した小学校ともう一つの小学校が一緒になってできている。だから知らない奴もいて当然だ。でも、できれば隣のどっちかに同じ小学校の奴はいてほしかった。

特に、何の問題もなく練習をこなし、その日は終了。決して長い時間では無かったけど、隣の奴とは一言も話さず、帰りは同じ小学校のやつと帰った。

そして、入学式当日。緊張しながら、座っていると隣のそいつ(以下G)が話しかけてきた。

「ちゃんと、校歌覚えてきた?」

たった12文字。これだけで十分だった。そして、このことをきっかけに、今度はこういうときは、俺の方から積極的に話しかけようというきっかけにもなった言葉だった。俺を変えた言葉といってもいいかもしれない。あの時、この言葉に救われたことを俺は忘れることはないだろう。

とりあえず、一人目の友達はできた。さぁ、この後はどうなる?

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2007年10月21日 (日)

あ ふれんど おぶ まいん~小学生編 2

小6になって、運良く、また、いい友達ができた。また俺を含めて4人組。このグループは元々仲が良かった3人組に、俺も交ぜてもらった感じだ。

このときは、折りしもポケモンの大ブームの時、皆でめちゃめちゃやってた。ポケモンのアニメを見て、その話をしながらポケモンをするという無限ループ、楽しかったなぁ。全員、とっくに151匹捕まえてたはずなのにね。みんなでサファリゾーンにストライクとかカイロスを狩りに行ったよね。その一人の家に結構遅くまで(18時までだけど)いたりしたんだけど、俺が一番遠くて大変だったことを覚えてるよ。

修学旅行とか卒業式のアルバムを見ると、やっぱり彼らと一緒に写ってる写真が多い。

「君」からもらったミュウ(なぜか親の名前は君だけど)はまだ俺のポケモングリーンにいるよ、「君」とは一緒に夏休みの自由研究の課題の「方言について」を図書館で調べたなぁ、もんすたぁレースを知ってたのは「君」だけだったよ。

この3人とは全く連絡がついてません。何してるのかな?できれば成人式の時にでも会いたかったな~。今は、mixiで出会えることをのんびり待つしかないね。検索してくれないと思うけど。

そして、この4人は同じ中学の全5クラスの中に各々振り分けられるのであった。このときも結構落ち込んだ。まさか、全員ばらばらとはね。

振り出しに戻る。さぁ、中学編へ。

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2007年10月18日 (木)

今、秋葉原のどこなら立ち読みができるんだろ?

年をとるにつれて、嗜好が変わっていくというのはよく聞く。食べ物の例で、一般的に言われるのが、肉→魚になるということ。その肉もカルビ→タン塩になると聞く。

俺は、そんなに焼肉に行くほうではなく、正直、ステーキは嫌いだが、「明日の晩御飯、焼き肉と焼き魚、さぁ、どっち!」と言われたら、焼き魚の方のおいしい応援団に惑わされつつも、9:1で焼肉を選ぶだろう。

と、これから俺の食べ物の好き嫌いについて語ってもいいのだが、おそろしく長くなってしまうので、またの機会にする。

今日の話は別の嗜好、そう、テレビ番組についてだ。

子供の頃、俺は典型的な子供だった。ヒーローに憧れ、巨大ロボットに乗りたくてしょうがなかった。企業にとってはマーケティングはしやすかっただろう。戦隊もの、特撮もの、ロボットもの、NHK教育のほぼ全部を見ていたと思う。NHK教育は意外と「しぜんとあそぼ」が好きだった。

「ひとりできるもんの舞ちゃんの両親って出たことないよね」「ジュウレンジャーのドラゴンレンジャーはティラノレンジャーのお兄ちゃんなんだぜ」「あなたの影に・・・ダンゴロン!」「ダグオンに鼻にメガネをのせてただけの奴いたじゃん。あの博士みたいなやつ。」みたいな、ことは今でも言う。そんなことは覚えてるくせに、英単語は全く覚えられない。おそらく俺の脳のHDDはもう一杯なのだろう。このパソコンと同じだ、早く増設しないとやばい。

そのときから、普通の人よりはテレビが好きだった気がする。中学の自己紹介で、趣味はテレビを見ることです、と言ったことも覚えている。今、考えると絶対おかしいぞ。気持ち悪いな、俺。

普通のテレビ番組では炎チャレ、さんまのなんでもダービー、マジカル頭脳パワーとかが好きだった。特に炎チャレのイライラ棒は大好きだった。おもちゃをねだった記憶もある。

アニメはその頃は今とは違い、全くの先入観無しに楽しんでいた。デジモン、おばけのホーリー、ポケモン、マーマレードボーイ、キン肉マン、ドラえもん、クレしん・・・数えればキリがない。仙台でやっていて、俺が中学に入るまではほとんど見てたはず。

こっちに引っ越してきてから、高一までの間、テレビを見る時間が減った。小学生の時に引っ越してきてたら、おはスタのめぐーの天気予報を見てただろうけど、さすがに中学生になって、見るはずもなく(とはいいつつも大学生で、のりスタのドンファンを楽しみにしている今の俺がいるが)、テレビを見てる時間はゲームの時間になった。

高一になって、どうなったのかのは承知の通り。未だにどうしてあの生活が続けられていたのかが分からない。週30本のアニメをどうやって見てたんだ、俺は。しかもほぼリアルタイムだぞ。

で、今はアニメ:サッカー:お笑い:その他の比だと、2:3:4:1くらいか。だいぶ変わったと思う。正直、だいぶ前からアニメを見る元気(体力)が無い。苺ましまろくらい「ながら見」ができたら見るが、最近のは、やれ三角関係のもつれだったり、次回予告はメール風だったり、やっと最終回だと思ってたらボートの映像が流れていたり、それが最終回の沢北もびっくりの布石だったり、と話題的には偏ってはいるが、いかんせんパソコンをしながら見ることができなくなってしまった(昔と比べてパソコンをしている時間が圧倒的に増えてるとは思うが)。

ガンダムOOもダカーポⅡも見るときはとりあえず、パソコンの作業をとめてから見ている。今、現在のダカーポⅡの感想としては小恋は正直、恐い。確実にもつれるだろ、あれは。ガンダムは、今はキャストとキャラクターの名前を覚えるのに必死です。

今、確実に見るテレビ番組としては

月  カンブリア宮殿、マンデーフットボール                                       火  リンカーン、ガイアの夜明け、Vガンダム                                             水  さまぁ~ず・さまぁ~ず                                          木  ダウンタウンDX、アメトーーク                                       金  爆笑オンバト、サッカーアース、モヤさま2                           土  あたしンち、ガンダム00、Jリーグタイム、エンタの神様、スパサカ、CDTV、(フットボールCX)                                                        日  CLマガジン、ガキの使い、やべっちFC、ダカーポⅡ                                  +伊集院が出てる番組(意外と多いんだわ)になる。

正直、数的には結構多いと思う。これは最低数だからトータル的にはこれより、確実に多い。くりぃむナントカ、ドキュメント・ナウ、サスケマニア、カルチャーSHOwQ、銀魂を見ることもある。

長くなっちゃったな。まとめると、今、秋葉原駅近郊でアニメージュ、New-type、声グラ、声アニ・・・etcが立ち読みできるのはどこなの?って話。

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2007年10月17日 (水)

あ ふれんど おぶ まいん~小学生編 1

俺は決して友達は多くはないけど、振り返ってみると、いい友人が周りにいたなぁと思う。そんなことを振り返る、今回は第一弾。

最初に「親友」という言葉を意識したのは小学校4年生の時だった。その時は、俺を含めて4人グループ。今になって考えてみると、共通点なんてどこにあったのかな?と思う4人組だった。一緒にミニ四駆をしてたわけでも、ハイパーヨーヨーをしてたわけでもない。家に遊びに行ったりもあんまりはしてない。でも学校だといつも一緒だった。自由に班を決められる時は迷わなかった。そして、4人組以外が逆にきつかった。何を話してたかは正直思い出せない。でも、一緒にいた光景は浮かぶ。

俺以外の3人は学校から徒歩2分くらいの集合団地に住んでいた。そこは、ものすごく転勤が多く、せっかく引っ越してきても1年くらいで転校してしまう場合が多い。その3人も例外では無く、時間が経つにつれ、一人ずつ転校していった。一人は岩手へ、また一人は岩手へ、もう一人は神奈川へといった具合に。六年の初めには俺は一人になった。今だったらメアドでも聞くだろう、でも当時はそんなの無い。

家に「遊びに来てね!」の手紙が届く。でも、当時はまだ小学生、そんな簡単には岩手にまで、遊びにはいけない。

それでも高2くらいまで年賀状のやり取りはしていた。年賀状に書いて、携帯のメアドも知っていた。でも、正直メールをするかといえば、しない。でも、それでも良かった。まだ、どこかで繋がっている、その事実だけで、俺は十分だった。

俺の携帯が水没して壊れた時、メアドのデータが全て消えた。

まだ引っ越してなければ、一応2人分の住所は知っている。来年は年賀状出してみようかな・・・とも思っていたりする。

3年生の初日に転校してきてすぐに仲良くなった「君」、4年の学芸会で花笠踊りのメインの4人を共に務めた「君」、5年の学芸会の『杜子春』の劇の重要な役を共に務めた「君」、今何をしてるんだい?元気にしてるのかい?小学校時代のことを思い出したりはするのかな?っていうか俺のこと覚えてる?もう二度と、また4人が揃うことはないんだろうなぁ・・・。揃ったら、どうなるのかな?

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2007年5月 9日 (水)

バースデー

ですよ、もうすぐ。東山さんのナレーションがかっこいいよね。

このまま行ったら、つよきすをしながら迎えるのかな・・・?

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2007年3月 3日 (土)

自分の嫌いなとこ

あまりにも朝が弱すぎる。夜は意外とずっと起きていられるし、その間はテンションは下がらないのに、寝ちゃうと起きられない。起きちゃえば楽なのに、起きるまでが本当にしんどい。

これが誰かと遊ぶだとか、バイトだったら無理やりにでも起きるんだけど、自分だけで出かける時だとか、最近だらだらしてるから明日は早く起きよう!って思って目覚ましをかけた時とかは、ほぼ確実に予定よりも遅く起床、最悪の場合はそのまま熟睡。

今日は熟睡パターンでした。起床予定は9時半。寝たのは2時半。普通に考えて睡眠時間は充分のはず。

だけどなぜだろう?起きられなかった。目覚ましを止めた記憶もある、そこでちょっと行くかどうかを迷った記憶もある。でも、また睡眠が勝っちゃったね。どんだけ連勝記録をのばせばいいんだ!

こんなやつが皆勤賞だったなんてすごいな。あんときの方が明らかに睡眠時間少なかったぞ。3時半までアニメ見てて、7時に起きてたぞ。

あ~あ。

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2006年11月 8日 (水)

弱り目に祟り目

MDラジカセが死にました。しかも、ケーブルを道連れにして。ちょっと前からイヤホンでしか音が聞けず、ラジオを録ったMDをパソコンのHDDにダビング、CDをMDにダビングすることしかできない。そして昨日、ケーブルの先を飲み込んだまま、吐き出さずパソコンへのダビングができなくなったので、今買い替えようか思案中です。

今、あのポンコツができることは「ラジオをMDに録音」「CDをMDに録音」しかできません。音は全く聞こえないので、編集もできません。このままじゃ、MDが何枚あっても足らないので、マジで考え中です。

週末まで待てば、コジマかヤマダのチラシが入るだろうからそれまで待とうかな。今日、大きなカメラ屋さんに行ったんだけど、2万円を超えてたので断念しました。デジタルオーディオプレーヤーが流行ってきたとはいえ、まだまだ高いね。できれば15000円で抑えたい・・・。パソコンにラジオを直接録音できればいいのになぁ。

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2006年11月 4日 (土)

今日は12:30に起床

自転車

こっちに来てから、俺の自転車には色々なことが起きている。

1、引っ越してきてすぐにマウンテンバイクを盗まれる。中学生の時だったので、犯人は同じくらいのやつだろうなぁ~。このやろ~!

2、母校になる高校の受験の日に、一緒に行った友達と仲良く撤去され、次の日にその両お母さんが仲良く取りに行った。

3、その自転車が古くなったので、新しい自転車をダイエーに朝早く並んで買いに行き、次の日に交通事故で自転車のタイヤが回らなくなってしまう。しかも、俺が怒られる。車のナンバをー見とけば良かったと後悔する。

4、仕方なくまた古い自転車に乗ってると、突然サドルが入れ替わっていた。明らかに違う。黒→白になっていた。

5、その自転車も寿命で捨てた後、新しい自転車(今現在のもの)をダイエーに朝一番で買いに行く。で、ちょっと前に駅に停めていたら、ベルのカバーが無くなっていた。で、しばらくして、マンションの駐輪場においていた自転車のカゴに入っていた。無くなってたものかどうかは分からないけど、そのカバーが自転車と合う。

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2006年10月12日 (木)

ターニングポイント

毎日毎日mixiの批判してばっかりも面白くないで、今日はちょっと真面目な話を・・・

自分の人生の中でターニングポイントというものが何個あるのだろう。そして、もし違った道を歩んでいたら、どうなってたのかな?と考えたことがありますか?

俺が大きなターニングポイントだと思ったのは4個。小学二年生、中学二年生、高校一年生。

まず小学二年生。これはサッカーを始めたとき。もしこの時にサッカーを始めてなかったとしたら、今日のインド戦の駒野のクロスの精度の低さに文句を言ってただろうか。昨日、レンタルショップで「レアル・ザ・ムービー」を借りようか、やめようかあんなに迷っただろうか?正直、今の俺にとって、サッカーが無い生活は考えられない。

次に中学二年生。これは転校。このことは俺にとってプラスだったのかな。もし俺があのまま転校しないでいたら、どうなってたんだろう、と今でも思う。みんな元気にしているのかな?

最後に高校一年生。これはTLS3の購入と、高校の友達との出会い。前者との出会いはある意味必然であり、運命だったのかもしれない。そして転校したことでプラスに傾いた、少ない事象の内の一つだと思う。テレ東や、アキバ、幕張メッセに出会えることも転校前では出来なかっただろうし。だけど、未来的に見てマイナスになるかもしれないので、それだけは気を付けないと。

高校の友達との出会いは、俺が転校しなかった場合にどんなに明るい未来予想図を描いたとしても結局は、皆に会えたんだから転校して良かったのかな、と思わせてくれる存在です。別にどの高校に行ったとしてもある程度楽しかっただろうし、友達もできたと思うけど、ここの楽しさには勝てないと思う。もし、タイムマシンで自由に昔に戻れたとしても、俺はここに行って、友達とまた会うね。

書いてみて分かったが、やっぱり大事なターニングポイントというのは、大事な人との出会いだと思う。TLS3との出会いもある意味、めぐーとの出会いだしね。

真面目な話をしすぎたなぁ~。じゃあ、ここで一言!サスケを見たけど、完全制覇をしたことを冒頭に言っちゃうってどうなの?誰かはクリアするんだろ?っていう視線で見ちゃうじゃん!感動したけどさ!

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